
英国のビクトリア女王(Queen Victoria)が着用していたとされる下着が7月30日、英国中部ダービー(Derby)近郊で行われたオークションに出品され、4500ポンド(約96万円)で落札された。
1890年代のものとみられるこの下着は「下ばき」の一種で、ウエストサイズが約127センチと巨大なもの。オークションの主催者は「非常に興味深い由来を持つ下ばきだ。入っている頭文字と紋章から、ビクトリア女王のものだと分かる」と語っている。
予想落札額は500ポンド(約11万円)だったが、落札額は約9倍となった。出品したのは英国のある家族で、匿名のカナダ人が落札した。
この日のオークションではそのほか、バスト約168センチのシュミーズが4000ポンド(約85万円)、ナイトガウンが5500ポンド(約118万円)で落札された。(c)AFP
★ヴィクトリア(Alexandrina Victoria Wettin, 1819年5月24日 - 1901年1月22日)は、イギリスの女王(在位:1837年6月20日 - 1901年1月22日)、初代インド女帝(在位:1877年1月1日 - 1901年1月22日)。
ジョージ3世の四男ケント公エドワードの一人娘。ハノーヴァー朝の国王は代々ドイツのハノーファー王国(選帝侯国)の君主を兼ねていたが、ハノーファーではサリカ法典による継承法を取っており、女性の統治が認められなかったため、ヴィクトリアはハノーファー王位を継承せず、叔父エルンスト・アウグストがその地位を継いだ。ファーストネームであるアレクサンドリナの名は代父であるロシア皇帝アレクサンドル1世によるもの。
生涯
王女時代
母ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトは後のベルギー国王レオポルド1世の姉であった。レオポルドの妻は摂政王太子(のちのジョージ4世)の一人娘(ヴィクトリアの従姉に当たる)で、イギリスの王位継承者であるシャーロットであったが、シャーロットは1817年死産の後、産褥で死亡し、ジョージ4世の直系の後継者はいなくなった。そのジョージ4世はその後再婚したり、あるいは他の女性によって子をもうけようとはしなかった。このため独身生活を謳歌していたジョージ4世の弟たちは、王位継承者となるべき子をもうけようとにわかに結婚を始め、ヴィクトリアの父ケント公も50歳で結婚した。
ヴィクトリアの洗礼式に代父となったのは、ケント公の兄摂政王太子ジョージ、ロシア皇帝アレクサンドル1世(イギリス訪問中で、ジョージとも仲が良かった)。代母は、ケント公妃ヴィクトリアの実母アウグスタ、ヴュルテンベルク公妃シャルロット(ケント公の姉)だった。洗礼を司ったカンタベリー大司教サットンが、赤子の名は何と呼ぶか尋ねたとき、皇帝アレクサンドルが「アレクサンドリナ」と答えた。兄に、聞き慣れない異国風の名前を付けられるという意地悪をされたケント公は、摂政王太子の兄の機嫌を損ねたらまた何をされるかわからないため、腹立ちをおさえ、「せめて母親の名前を一つつけたい」と控えめに願い出て、「アレクサンドリナ・ヴィクトリア」という名前となった。このいきさつもあり、公的に名乗るときは「ヴィクトリア・オブ・ケント」としていた。 1820年1月23日、ヴィクトリアが生後8ヶ月のとき、父ケント公は亡くなった。
母ケント公夫人ヴィクトリアはドイツ語を母語とし、ヴィクトリアは3歳までドイツ語のみを話す生活を送った。そのためもあってか、ヴィクトリア個人は生涯ドイツびいきであった。幼児期に英語の学習を始め、のちに古典ギリシア語やラテン語、フランス語も学んだ。またオペラを好んだためイタリア語の学習も行った。
ヴィクトリアが10歳のとき、伯父ジョージ4世は子供を残さずに死去し、その弟ウィリアム4世が王位を継承した。ウィリアム4世には子がなく、ヴィクトリアは推定王位継承者となった。ヴィクトリアを毒殺しようとする計画があるとの噂を聞いた母は、つねにヴィクトリアにボディガードをつけ、ヴィクトリアが1人で外出することを決して許そうとしなかった。ウィリアム4世の死後、ヴィクトリアは18歳で即位し、首相ウィリアム・ラムの助言により政治を行った。
女王ヴィクトリア
イギリスでもっとも輝かしい時代をつくりあげた女王であり、その治世はヴィクトリア朝と呼ばれる。彼女は世界中の王室のモデルとなった。この時代、イギリスは世界各地を植民地化して一大植民地帝国を築き上げ、ヴィクトリアは「インド女帝」の称号を得ている。「君臨すれども統治せず」によって議会制民主主義を貫き、彼女の寵愛するベンジャミン・ディズレーリ、そして、良き夫であるアルバートの助言によってイギリス帝国を繁栄させた[1]。
ヴィクトリアが母方の従弟に当たるザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバートと初めて会ったのは16歳のときである。血縁関係の他に、2人は同じ主治医にかかっており、そこから交際が深まった。ちなみに、ヴィクトリアは自分からアルバートに求婚した(女王に求婚することは許されなかったからである)。結婚式は1840年2月10日に行われた。アルバートが政治に関ろうとしたため、2人の間にははじめ軋轢があったものの、間もなく妥協が成立し、2人の結婚生活は優れて成功した、幸福なものとなった。
1861年12月14日、結婚21年目、42歳で夫アルバートが死去する。夫の死後、女王は悲嘆し、ハンプトンコート王室牧場も1894年に閉鎖、常に喪服を着用し、公の場に出ることは殆どなくなった。1899年、ヴィクトリア&アルバート美術館建築に着手した。
1901年1月22日死去。81歳没。在位64年。
人物
晩年のヴィクトリア趣味は、乗馬と日記だった。乗馬好きが高じて馬産も手がけ、1849年にはハンプトンコート王室牧場を再開させた。競走馬は持たないという夫との約束で生産した馬はすべて売却していたが、英牝馬三冠を制した名馬ラフレッシュの生産者としても名を残している。また、汽車による旅行を好んだという。
アルバート公死後の服喪時代、馬丁(従僕)のジョン・ブラウンを寵愛し、恋仲にあると噂されて「ブラウン夫人」と呼ばれた。 (2人の愛は映画『Queen Victoria 至上の恋』(原題:Mrs. Brown)(1966年)に描かれている。)
子女
子供達をドイツを中心とした各国に嫁がせ、晩年には「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるに至る。しかし女王自身が血友病の因子を持っており、ロシア皇太子アレクセイを始めとする男子が次々と発病した。著書ではそのことを「ヨーロッパ王室の悲劇」と書いている。ヴィクトリア女王の傍系の親族には血友病保因者はいないため、ヴィクトリア女王が血友病の突然変異を持って生まれたと見られる。
ヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズ(1840年 - 1901年) ドイツ皇帝フリードリヒ3世妃
エドワード7世(1841年 - 1910年)
アリス・モード・メアリ(1843年-1878年) ヘッセン大公ルートヴィヒ4世妃
アルフレッド・アーネスト・アルバート(1844年−1900年) ザクセン=コーブルク=ゴータ公、エディンバラ公
ヘレナ・オーガスタ・ヴィクトリア(1846年-1922年) シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子フリードリヒ・クリスティアン・カール夫人
ルイーズ・キャロライン・アルバータ(1848年−1939年) アーガイル公ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人
アーサー・ウィリアム・パトリック(1850年−1942年) コノート公
レオポルド・ジョージ・アルバート・ダンカン(1853年−1884年) オールバニ公
ベアトリス・メアリ・ヴィクトリア・フィオドア(1857年−1944年) バッテンベルク公ハインリヒ・モーリッツ妃
脚注
^ 実際には、大臣の指名や政策など政治に相当干渉していた[要出典]。しかしながら、その度合いは以前の国王たちに比べると穏やかだった。政党では保守党をひいきしていたようである。
<参考>ビクトリアン
英国のビクトリア女王が治世した時代(18371901)のスタイルで、2005年秋冬コレクションのダークでクラシックな傾向を代表する。フリルやレースを多用したブラウスやベルベットのペプラムジャケットなど、装飾的でロマンチックなデザインが特徴。長く夫の喪に服した女王の影響から、黒や襟詰まりの禁欲的なデザインが多い。







